苦痛だった体育の時間

 高校までは、体育の時間が一番苦痛でした。それは運動全般が苦手だったからで、なぜ苦手だったのかは、今でもうまく説明することができません。いわゆる、運動神経というものがなかったのか、左利きだったのに、学校の先生の教えるままに右足や右手を使うことで、無理をしていたからか、その両方が関係していたのかもしれません。

 小学校は、最初にいた学校は、課外の部活動がそれほど活発ではなかったのですが、4年生で転校した先の学校は部活動が盛んで、運動、特にチームプレイを求められる球技が得意な人がクラスで幅を利かせており、運動が苦手なことは自分の性格にも影を落とし、内向的になって悪循環に陥っていました。転校生はよくも悪くも注目される存在で、最初はクラスにおける立場は不安定であり、最初が肝心なところ、スタートを上手に切れなかったわけです。それでも、ある意味、ギリギリのところで踏みとどまりながら、小学校は何とか乗り切りました。勉強は、お世辞にもできたとはいえませんでした。

 中学校に入り、体育の時間は苦痛でしたが、勉強の方は学年中位から抜け出し、次第に上位の方に食い込んでいきました。クラスの中でも勉強ができるようになると、クラス内で権力を持っている、運動の得意な人たちからは、勉強面で頼られるようになり、それでもチームプレイを求められる球技で足を引っ張る存在であり続けたので、その点では不安定でしたが、いろいろとクラスや生徒会の役をこなすことで、複雑な権力関係を渡り切りました。

 高校に入ると、体育の時間が苦痛なのは変わらず、学力水準が一定の枠におさまる高校に入ると、勉強は再び中位になってしまいましたが、中学校に比べればあからさまなクラスの権力者のような存在はおらず、ただ、言ってみれば灰色の高校生活でした。ただ、ここでも幸いにして、勉強の方が中位から抜け出し、何とかトップの方に昇り、大学受験の方も、かなりうまくいきました。

 大学に入り嬉しかったのは、小学4年生以来の9年間の体育の呪縛から解き放たれたことです。体育はありますが、チームプレイを強制されることはなくなり、自由に種目を選ぶことができました。交友関係も広がり、内向的な性格は大きく変わりました。運動が苦手であることの重圧は、自分の性格にも影響を与えていました。

 ただ、こうして大人になってみて、自分の小学校や中学校の時代を振り返ると、実に狭い世界に生きていたと思います。運動が苦手であっただけでなく、性格的にも内向的ゆえに誤解を招くような言動を繰り返していたように思います。自分に自信がないと、自分を粗末に扱うようになり、他者からもぞんざいに扱われるようになります。とはいえ、人は変われますし、大人になれば世界が広がります。いろいろとしんどい思いもしますが、世の中は多種多様な価値観であふれており、仮に今、小学校や中学校といった狭い世界で価値観を否定されても、自分が選び取れば認められる世界に出られます、ただ、そうした世界に出るには、自分でつかみ取るしかありません。それには学びが必要です。今、小学校や中学校で辛い立場にいる人も、まずは勉強することで学力面での優位を確立できるように頑張ってみてください。それにより、自分の立場を楽にできることはあると思います。

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