生命の尊厳。人として生れるのは非常に難しいのに、毎年多くの人が自殺している。病気、借金、家庭不和、仕事、要因はいろいろある。病気は、人によってはどうにもならない症状であることもあり、それは医学の力の限界であるなら、宗教的な救いしかないと思うが、健全な体を持った者が肉体的な寿命を大幅に縮めることは、非常に遺憾だ。精神的寿命が尽きた時点で、肉体は道連れにされるのさ。仕方ないよ、精神は絶対君主なんだ。肉体は逆らうことできない。
A「もし肉体に命令拒否権を持たせることができたらどうかな。」
B「そんなこと、できるはずない。」
A「いや、我々の肉体も、細胞レベルでは死にたくないと叫んでいるという。だから、その叫びを集めるんだ。これを全国民に注射する。」
B「そんなことしてどうするよ、精神的な廃人が増え続けるだけじゃないか。」
A「もしそういう連中が自暴自棄になり、通り魔事件でも起こしたらどうなる。自殺は防止しなければならないが、それは精神の復調によって可能にすべきである。肉体を不健全な精神に縛り付けておくことがナンセンスなんじゃないか。健全な肉体なんだ。精神を入れ替えてしまえばいい。」
B「そんなこと、できるわけないじゃないか。」
A「いや、それほど難しいこともない。自殺しようとしている肉体を感知し、奪い取ってしまえばいい。もちろん法律の制定が必要になるが。」
B「そんな、自殺を助長させる法案なんか、理解されるわけないだろう。」
A「だから、死が認定された時点で、入れ替えるんだよ。それでは遅い、焼身自殺や薬物自殺、ガス自殺、飛び降りだって、だいたい肉体に壊滅的なダメージを与える。結局無意味だ。国民に渡したカードがあるでしょう。ああ、あの対して役に立っていないカードな。ありゃ税金の無駄遣いの典型だ。だいたいたいして普及していないじゃないか。それを全国民に配布するんです。減税の現金還付をやるでしょう。その本人確認を、あのカードでやるようにするんです。反対する政党もあるでしょうが、大義名分としては通りのよい話です。いずれ更なる減税措置を取る時にも必要とかいう口実で、全国民に持たせるんです。そしてそのチップに、自殺確定センサーを取り付ける。自殺しようかなとか、自殺したいなとか、そんな程度では働かない。リストカット程度の自傷行為にも、アラームは反応するが、スイッチは入らない。死を覚悟した精神状態をキャッチした段階で、精神中枢を一時的に休眠させます。そこで自殺と判定された肉体は、精神を入れ替えられるというわけです。」
B「入れ替えるって簡単に言うが、どうやるんだ?」
A「簡単ですよ、脳を載せ換えるだけですから。脳を載せ換える?」
B「無理だよ。」
A[量子コンピュータで、前の脳の支配構造をすべて解析し、新しい肉体に対しても支配構造を覚えこませる。0.0001%以内の誤差なら、脳に補正を期待したいところです。それで失敗なら、仕方ありません。どちらにせよ助からない命なんです。だから自殺認定をして、不治認定をするわけですから。やってみましょう。さっそく来月から稼働させましょう。」
B「予算、人員、設備は、どうやって集めるんだ?」
A「自殺予防と、臓器移植、難病対策にかかわる国、自治体の人員をそのまま移します。予算もできれば動かしたいですね。再編成された「人的資源保護本部」でこれらの対策を統合的に運用します。これまでの対策より、これはずっと効果的ですよ。」
二人の対話が途切れた。その場に居合わせた、一同は沈黙したままだった。社会から退出したいという確定的意思をもった人間はさっさと退出してもらい、生きる意志をもった人間を生かす。あるべき姿だ。しかし。
C「それにしても、同じ顔をして中身が違う人間ができるわけだろう。社会的に混乱するんじゃないか?」
A「たしかに、細胞だけ入れ替えればよいのでしょうが、現在の医療技術ではそれは不可能ですから。そうした混乱もやむを得ないのかもしれません。あるいは、顔だけ第三者に整形するという方法もありますが。」
C「いずれにせよ、多少は別人になることを許容するということになるな。」
A「姿かたちは変わっても生きてほしい。それが周囲の意志ではないでしょうか?」
C「それは戻りえぬ者に対して言う言葉かもしれないが、実際に別人と暮らすことになった場合、長続きするかな。」
A「個人や家族の心情はともかく、社会の損失を未然に防ぐという観点だけでもやる価値はあります。」
C「そういう観点からの実施はほとんど無意味だ。自殺認定を受けた家族から奪い、治る見込みがないとはいえ、生きている者を別人に変えてしまう。」
A「じゃあ今まで通りの効果的でない自殺対策を取り続け、治る見込みのない患者に気休めを言い続けるんですか?」
D「まあ、やってみようじゃないか。人格は変わらないんだ。人の見かけといっても、慣れる方に期待しよう。」
たしかに、ほかに手はないのは事実だった。
(後日)
C「やってみて一番の誤算は、生き残った人間が、二人の役割を演じることになったことだな。」
A「たしかに重荷だ。自殺者は生きる意志を取り戻し、難病の患者は生きるための肉体を手に入れたが、それを欲しがっていた双方の関係者から、あるべき役回りを演じるよう求められる。」
E「ひとつ問題がありまして、多くの場合、前の会社に引き続き勤務することになるのですが、ノウハウがリセットされているので、問題になってしまうそうです。」
A「無理もない。中身は別人なんだから。」
E「とはいえ、それをすべての関係者に周知することは難しい。それでトラブルになり、悩んだ挙句に自殺するという事態も、起きてしまったようです。」
A「そんなことしたら、また中身が入れ替わるだけだ。まあ、そういうことはしょうがないんじゃないか。完全な成功なんて望めないからな。だいたい、このデータをみろ。自殺しても自分と関係ないところで自分が生き続けることを恐れ、自殺者は確実に減っている。あとはハイブリットな人生を送ることになった人たちが増えてきて、社会の理解が進めば、このやり方は必ず軌道に乗る。」
C「ハイブリットな人生ねえ。僕がそうなったら、二つの家族にどう接するかな。ひとつの家族は記憶があるが、記憶のない家族の前では、演じるしかないんだろうな。」
A「そう、演じればいいんだよ。もともと人生なんて、人が役回りを演じているに他ならないんだから。」
C「その言い草はちょっと違うような気がするが、まあ、そうかもしれないな。」
D「今度は、二つの家族がハイブリット人間の帰属を巡り、裁判になるケースが増えているようです」
A「それは贅沢な奴らだな。生きているんだからいいじゃないか。」
D「まあ、元の生活をしたいというのが、家族の偽らざる心情じゃないですか。家族によっては、今の記憶を消してほしいと頼む場合もあるそうです。」
A「これ以上いじって、どうするつもりだ。」
D「本当、なんだか人間でなく、入れ物のように扱われてますね。」
C「そうだな。このプロジェクトを進めるようになってから、人間って、記憶が入れ替えられるようになると、一体何者になっていくんだろうと、思うことがあるよ。」
D「結局、社会的なものでしょうね。」
C「社会的なもの?」
D「自分自分どうあるべきかなんて、ほとんどないんですよ。ただ、親、家族、職場、その他いろんな環境が、自分というものに何を期待しているかで、自分の立ち位置を逆算する。自分がここにいたいなんて、実は思ってないのかもしれない。人が思うならここにいよう。自分は少なくとも、そういうものが人生だと思いますよ。」
C「なんだか主体性がないなあ。」
D「日本の主食がコメと決めつけている根拠はないように、主体性があるかどうかなんて、怪しいものですよ。主体性も周囲が作り上げたものを信じ込んでいる面が強いですからね。」
C「それは面白い意見だ。」
D「ハイブリット人間は個人的には賛成しませんが、そういう生き方もありだとは思うんです。現に部分的にそういう人はいますしね。究極の例が、美濃で大名をやりながら、京で油問屋をやっていた、斎藤道三ではないですか。」
C「たしかに、すべての時間と場所で自分を一致させる必要は、ないかもしれないな」
D「今度は、ハイブリット人間が犯罪を犯してしまった場合、どちらで裁くかです。」
C「今の活動領域で認定するしかないだろう。」
D「そうすると、もう一つの自分は困ることになります。罪を犯していないから。」
C「それもそうだな。しかし放置しておくわけにはいかないし。」
C「仕事は解雇、でももう一つの家庭ではよき家庭人を演じ続け、場合によっては仕事も続けるというわけか。」
D「ただ罪を犯したのは二つの顔を操る一貫したひとつの心です。だから現在の生活がどうあれ、帰属がどちらであれ、裁くしかないでしょうね。」
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