「気づきましたか。」
そうだ、僕は病院にいたのだ。体調が再び悪化し、入院した。
体調悪化の原因は明らかだ。体の中を暴れまわっている病が、新たな場所を荒らしているのだろう。一応、病院に入れば治療はしてもらえるが、僕の生命にとっての「正当」を傷つける、反政府ゲリラはあちこちに散らばって潜んでいて、それらを掃討することはほぼ不可能なので、顕在化した拠点だけを叩く。空爆的な治療法も以前は行っていたが、「正当」へのダメージが大きく、今は行っていない。
目の前にいるこの人物は、誰だろう。女性だ。僕の人生で、このような女性の知り合いはいたのだろうか。思い出せない。
「あなたが私をみて、戸惑われるのも、無理はありません。私とあなたのつながりは、別な世においてでした。ただ、私自身、このような姿であったわけではありません。疑似的に、神通力で現れたというころにしておきましょう。」
「なぜ、僕の前にあらわれたのですか」
「夢を見てもらうためです」
「夢?」
「そうです。あなたは、もう、外の多様性を体験することも、本で空想世界を旅することも、難しくなっています。」
「夢だって、最近はなんというか、筋道のたった夢はみていないです。」
「それは、夢を見るだけの受け止めと、そこからの生み出す頭の体力がなくなっているから。夢の中身と、夢をみる力は、私が差し上げます」
「そのような都合の良い話、なかなか信じられませんね。だって、他人のつくりし夢の中では、そこで交わされる言葉もわからないじゃないですか。」
「あなたは、夢の中で言葉を聞いたことがあるのですか。」
「えっ」
「夢の中はすべて認知の世界で、言葉のような不自由な表現に頼る必要はありません。」
「でも、仮に、外に出たとしても、幻。現実に戻れば、むなしいものですよ。」
「幻とは、むなしいものでしょうか?現実の成功は、それほどありがたいことでしょうか。物質的な豊かさは、もはや貴方には必要とされていません。」
「そうでしょうね。僕のような、人生の際にいるような人間には、どちらでもよい、わけですか。でも、それがむなしいのですよ。」
「今はそう思うでしょうね。どうも今宵は、私の出番ではないようです。まだ貴方には時間が残されている。」
神通力の彼女が去ってからも、僕は夜通し起きていた。少しは寝たのかもしれないが、現実が重すぎて、というか、自分自身にしか関心が持てないような状況に追い込まれて、どこにもこころの逃げ場がなかった。多くの経験をして、多くの人とも交わってきたはずだが、そうした、僕が世の中で、この上ないものと信じてきていた、大事にしてきた、無形の財産とやらも、今の僕には役立たないらしい。思い出は確かにあるが、心が生み出すほどの力は残っていないようだ。
これでは、次の生に向けて心を耕すことができない。多くの人が望んで得られず満たされぬ思いをしている、「世間様」からみれば、残り少ない時間しかない自分が多様な体験を望むことは、身の程知らずの欲張り、意味がないと思われるだろう。次の生への準備というものは、宗教観とか死生観の領域であり、気休め程度に扱われている。
残り少ない生を、穏やかに生きる。次の生よりも、現在の生の始末をすることが強く要請されている。もはや自分は、自分のために生きることを許されなくなった。そういう、自分の人生を主体的に生きるというのは、自立した生活が営める人間にのみ与えられた権利である。それは明示的に語られることはないが、知らないと非常識な奴として死んでいくことになる。
ここまで思索を進めるだけで、持てるエネルギーの多くを使ってしまった。
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