小学校のときの嫌な思い出

小学3年生か4年生のことであったが、人のことを差別するような発言をした。それは今で言うスクール・カーストの下位にある自分が調子に乗って発言したものであり、ある種、スクール・カーストの上位のクラスメイトから発言するよう仕向けられ、嵌められたところがあったと思う。心からそうした思いを抱いていたのではなかった。転校する時にその子から手紙をもらったが、開けることができなかった。怖かったというのもあるが、自分にはそういう手紙を受け取る権利はないという思いもあった。今の自分にはその手紙を開ける気持ちの強さがあるが、もはや40年前のことであり、今さらという気持ちもある。もしその人と出会う縁があれば、謝りたいと思う。

転校後も、自分のスクール・カーストの地位は下がる一方であり、つくづく自分が嫌になることがあった。転校してみて、前の学校のカーストの地位はまだ高い方であり、当時は、転校前の学校を過大に評価する傾向にあったと思うが、そんなに変わったものではない。ただ、転校後の学校はいろいろな意味で蔑ろにされたと思う。中学に入り、少し状況は好転した。スポーツが苦手な自分にとっては、学業成績がすべてだった。自分の中のいびつな欲望は当時から抱いていたと思うが、当時の方がその欲望の解消方法を見出しておらず、自分で自分のことを気持ち悪いと思う。いろんな、人には言えないものを内に抱えながらも、人は変わることができるし、自分の中の欲望を無くすことは難しいが、解消方法は改善することは可能である。人間関係が限られている小さな離島などに生まれ、そのまま離島で就職して小さいころからの上下関係が変わらないような社会に生きていない限り、生活環境も変わる。自分からより良い方向に歩み出して行けば、絶対的にも相対的にもより良い立ち位置を得ることは可能だ。

いびつな欲望を押さえられない自分に対し幻滅したり、人生の急降下により自分に絶望することがあり、自分の存在を消してしまうことがあるが、多くの人にとってより良い方向に変えていくチャンスはあると思う。すべての人にあるかは、わからない。タイミングとか、選り好みするとかで、チャンスが遠ざかることがあると思うし、ただ待っていて変わる可能性は限りなく低いと思うが、ゼロではない。自分の気持ちを立て直すために、他人の力を借りることは悪いことではなく、宗教も一定の役割を果たす。宗教組織はどうしても、その存続が自己目的化するので、排他に陥りがちであるが、そこは取捨選択すればよい。宗教により人生のすべてを解決できる、そういう宗教がもしかするとあるのかもしれないが、無理に全振りする必要はない。全振りしなければ頼れない宗教であれば、それはツールとして有効ではないので、離れればよい。オフラインに踏み込まなければ、一定の匿名性を保ちつつ、付き合うことも可能である。

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