部分最適

 部分最適を追求することは、個人としては許されるのでしょうが、社会があらゆる場面で部分最適を追求したら、コストは際限なくかかり、かえって社会を疲弊させてしまうでしょう。部分最適とは、見渡せる限りの局所の場面において漏れなく、完璧に、一人も残さず、救いとるというものです。理想ではあります。問題がありながら解決に向けて何ら対応しないのは行政として怠慢ですし、問題の解決にあたって目指すべきところの部分最適は、行政官の念頭にあってしかるべきです。

 でも、社会全体の資源は有限で、すべての人が満足する解決案は存在せず、しかも社会はもともとひずんでいます。きちんと伸ばせばシワ一つなくなるテーブルクロスのようなものではなく、シワやヨレがもともとある、いびつなテーブルクロスを伸ばして、なんとなくふんわりと置くことで、どこもシワやヨレを目立たない程度にならす。どこかをピシッとしようとして強引に伸ばせば、たしかにその部分だけはきれいになりますが、ほかのしわ寄せがひどいものになってしまいます。全体を見る必要のない人は、ほかのしわ寄せがどれだけひどかろうが、知ったことじゃない。それではしわ寄せの押し付け合いでいつまでも安定しないので、政治がバランスを取り、社会全体を及第点程度にならしておき、ただ致命的に落ち込む者のないよう、安全網を張り巡らしておく。

 未来から今の時代を振り返ると、「あるときから、政治がバランスを取る役割を放棄し、行政は及第点以下に落ち込むところがないか目配りをすることをやめ、ただ、問題が生じるたびに、その場その場の部分最適を求めることに全力を尽くし、後のことは顧みない。将来負担は無責任に累増し、はじけた。後世代からすると無責任きわまりない先人の所業ながら、負担を増やした当人たちからすると、浪費していたわけでもなく、一人一人の人生を全うさせるには必要な経費だった。ただその費用対効果が不釣り合いだっただけ。人命を伸ばすためにお金を惜しむことは悪であった。費用対効果は人に関してはあからさまに問われることはなかった。」となるでしょう。

 さて、現役世代でこの負担の先送りの渦中にいるわれわれ行政の人間はどうするべきでしょうか。部分最適を追い求める、これが一番合理的です。もともと社会に全責任を持っているわけではなく、与えられた職務の水準をこなし、さらにより良い取り組みをしていくことが求められていますので、そのとおり実践すればよい。行政官に異動はつきものであり、異動すれば自分が部分最適を志向すべきテリトリーも変わってくる。異なるテリトリー同士では同じ役所でも引っ張り合いになるため、首尾一貫した判断というのはなかなか難しい。与えられた役を演じると割り切ることで、目の前の業務に純粋になれる。

 それでいい、それで乗り切れば、何とか対岸にたどり着くはず。危機があるなら前触れがあるはず、今のところはない、世界的にも大なり小なり似たような状況であり、短期的視野のもとで部分最適を追い求めている。他と違ったことをしているわけではない、しいていえば、相対的に負担が少し重いに過ぎない。そうやって自分を騙してきた。そもそも解決の処方箋がどうやっても見つからない。不治の病に罹ったようなもので、あとは超自然的な民間療法に頼るしかない。負担先送りの根拠があいまいだから、民間療法の怪しさも全面否定できない。否定すると自らの施策も批判しなければならないから。そうやって、曖昧と無責任の海は広げられていき、みんなでいい子を演じてその日ぐらしをする。

 正論は首肯されても実行されることはありません。今を生きる人々に求められているのは、自制と自衛と想像力です。未来は悲観的な結末には至らないですが、その過程では定常世界の変革を迫られるので、その中を耐え抜くしなやかさと持久力は求められる。それが何かはわかりませんが、無形の備えをしておくことは必要だと思います。

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