透明人間届

 

電車の待ち時間、ホームのベンチに座っていた僕は、ずっと携帯の画面を注視していた。
いつまで待っても来るはずのない返信。
「現実を受け入れたくないのね。」
乾いた、冷たい声が耳元を痛打する。
「あなたが希望した世界でしょ。」
確かに。でもこれは「無人島」じゃない。

僕は1か月前、「社会性喪失願」を区役所に提出し、「透明人間」になった。
社会性喪失願は、人間社会との関わりに疲れた者がとる最終手段。以後の人生、人間関係に煩わされずに生活できるようになる。
この制度を選ぶ人間は増え続けた。賛否はあったが、自殺や犯罪の抑制に効果もみられたため、次第に浸透し、社会性を喪失した人間は、いつしか「透明人間」と呼ばれるようになった。
透明人間とはいえ、無人島に島流しにされるわけではなく、表面的には一般人と同じような生活を送ることになる。そのため外界との接触を完全に遮断することはできない。法令により携帯電話が、透明人間と外界をつなぐ唯一の手段と規定された。ただし携帯「電話」でありながら、通話は警察と消防のみに許されている。メールについても、感情表現は人間関係を生じさせる要素として、送受信時のフィルタリングでことごとくそぎ落とされるようになっていた。
僕は透明人間になって、職場はコールセンターに変わった。多くの人間が働いているが、全員が透明人間であるため、直接会話することはない。組織であるため上司はいるが、出会ったことがない、というか出会っても相手が上司とわからないだろう。すべて携帯メールでコミュニケーションが図られる。だから、顔はみたことがない。僕も年数を重ねれば、顔の見えない部下を持つことになるのだろう。

透明人間になると、家族とのやり取りも携帯だけになる。だから多くの場合、家庭を維持できず離婚することが多い。もっとも、透明人間としての人生を選ぶ人間は、既に家庭生活においても、破綻しているケースは少なくない。

僕は独身なので、透明人間になった時点で、恋愛とか結婚は諦めたことになる。それで早まったと思うこともあるが、追い詰められた当時の日記をみると、いつ自殺してもおかしくない状況であり、生きるためには緊急避難で仕方なかったと、喉元過ぎて非難がましい内なる声に、抗弁している。

ある日、コールセンターで別な部門に回す案件を受理した。それ自体、よくあることで、案件の引き継ぎは当然携帯メール。
事務的なやり取りを交わしたのち、最後のメールで向こうのオペレーターが、「お疲れ様です★」と結んでいた。
たった7文字の何気ない文句だった。普通に生活していたときは、何とも感じなかっただろう。でも、人の気持ちから隔絶されていた僕には、頭がしびれるぐらいの新鮮さを感じた。それにしても、フィルタリングを通過できたこと自体、驚きだ。
オペレーター番号3310。どういう人なんだろう。人に対する興味が、久々に僕の心に湧きあがった。
数日後の昼休み、僕は3310にメールを送った。
「50音を縦横数字で、了解?」
「了解」
「101413261154525(わたしはおとこです)」
「1014132611510651(わたしはおんなです)」
おっ、うまくいった。
「1143446151324112(あってはなしたい)」
「35133271328313(そうしましょう)」
「7142111013461328545322110661(まちあわせばしょとじかんは)」
「8593(7:00)、6510642453514526515731410642」
夜7時、本千歳駅ホームのベンチか、了解。

本千歳駅は閑静な住宅街にある小さな駅。高架になっているので住宅街の向こうに港が見える。ホームにはベンチが1つだけあった。
そのとき、メールが入った。
「13725565131057244」

駅から港の方を眺めると、5階建ぐらいのマンションの窓から人が顔を出している。この人か。
僕はホームの階段を下りて、マンションに向かった。

マンションの入口には大きなライオンの置物があり、中もいろんな動物が描かれている。入口は当然ながらオートロックだ。誰かが下りてきた。屋上にいた人だとわかった。
「こんにちは。」
「3310、わかる?」
やはりそうなんだ。
「こんなとこで立ち話じゃなんだから、うちに来ない?」
えっ、こんな夜遅くに女性の部屋に入るんですか。
「大丈夫。誰も見てやしないから。」
「いや、そういう問題じゃ。」
彼女の部屋は最上階の5階、しかも一番奥だった。その先には屋上に上がる細い階段がある。
「入って」
彼女の部屋は細い廊下を進んだ奥に部屋が一つだけある、シンプルなものだった。
段ボールがあちこちに置いてある。
「かけて」
勧められるままに窓わきの椅子に腰を掛ける。椅子からも、駅のホームがよく見える。
彼女は冷蔵庫から持ってきた缶ビールを僕の前に差し出した。そして軽く乾杯。
「見ての通り、1か月前に引っ越してきてまだ整理できてないの。なんだか、透明人間になると、自分にまで関心なくなってくるみたい。」
「なぜ、透明人間なんかになったんです。」
「嫌になったのよ。職場の同僚だった夫が浮気して、職場に噂が広まり、実家では家業が倒産してしまった。それより、あなたはどうして、たいして人生も経験してないのに。」
「結局、自分にキャパがなかったのかも、そして、受け止めてくれる人もいなかった。もしかしたら、別な選択肢があったかもしれない。」
「私の場合、受け止めてくれる人に、裏切られた。だから糸が切れてそのまま落ちた感じかな。」
缶ビールを飲み干して、彼女は駅をみながらつぶやいた。
「人間って、勝手だね」
「えっ」
「だって今、私さみしいの。あれほどうざいと思っていた人間関係、今は懐かしい。」
「僕もそう。いっそ無人島のほうがよかった。人がいるのに関われないってのは、辛いですね。」
僕も缶を空にして、彼女と向き合った。
「一人だけの世界はさみしすぎる。せめて、二人の世界に、しませんか。」
「それは無理。もうこういう選択をした以上、二人は後戻りはできない。そうでしょう。」
「そう、ですかね。」
「もし透明人間になる前に出会えば、いい関係になれたかもね。」
久しぶりの人とのふれあいは楽しかったが、僕らはそれ以上深入りしなかった。
「また明日からは、オペレーター番号で認識することになるのね。」
透明人間は、人間関係の深化は法令で認められていない。もし深化が発覚すれば、本当に無人島送りだ。
それが社会性喪失を選択し、他者への責任を放棄したことに対する、「見返り」だった。
「たまに数字のいたずらぐらい、いいかな。」
「そうね」
彼は駅に戻ると、さっきと同じ座りホームに座り、マンションの窓を眺めていた。窓は閉め切られたまま。もう、二度と会うことはないのかな。しばらく感じていなかった、甘酸っぱさが去来した。

「おお、こんなところで何やってるんだ?」
「声をかけられて目を開けると、会社の先輩が目の前にいた。
「あれ。」
「なんだかこの頃、大変そうだよな。まあ、そういう時期はあるさ。頑張れよ。」
先輩は肩を叩くと、反対側にやってきた電車に乗り込んだ。
僕は急いでメールをみた。
あれ、何もない。暗号メールもない。
そっか、透明人間じゃないんだ。よかった。
また気分入れ替えて、頑張るかな。

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