自分のことを理解してくれる存在と出会うことは、それ自体が非常に難しいです。家族とか親兄弟であっても、自分のことをすべて話せば、理解してくれることは一部であり、あとは否定されたり、引かれたり、という感じで、すべてを打ち明けることはできません。職場の同僚とか、同性の友人でも、どちらかと言えば、表の自分しか話せないことが多く、表の部分の気休めにはなりますが、表の部分の大事な相談相手でとして、離れたりしないよう、裏は言えないことが多いです。というか、そういう近しい関係ほど、さらけ出すことができません。
異性の友人で、一定の親密さがあれば、いろいろさらけ出すことができるので、比較的、裏も含めての付き合いができるのですが、関係性が安定化しません。のめりこみ過ぎれば危ういわけで、適度な距離感を保つことは非常に難しい。君子であれば、ここは危うく、近づかないところであり、人間関係としては蜜の部分ではあるんですが、手を出している人はそう多くはないでしょう。
そういう異性との関係であっても、人の命が有限であり、別れがあります。そうならなければ、バランスを崩して人生全体を大きく損なうリスクと向き合って生きるので、思い出は甘美であっても、当事者であり続ける時間においては、一定のストレスを抱えながら、蜜をなめることになります。
結局、人が表裏を話せる対象として、神仏が存在するのだろうと思います。とはいえ、それは心で語りかけるだけで、間に立つ神仏に仕える人に対しては、そこの語りも限定的になります。宗教の多くは信じることで成り立っていますので、自分の心の強さに依存しており、突然崩れることもあり、その時の衝撃が怖いから、あえて神仏に深入りいない、そういう人も少なくありません。
人生における最大の命題、自分のことを表裏すべて知り尽くし、それを受け入れてくれる存在との出会いというのは、不信を根底に持つ自分にとっては、非常に難しいことだと思います。
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