「心の無人島」の母への電話

 高齢者になって、気の許せる友人や家族が周囲にいない環境で生活するのは、とても寂しいことなのだと思います。また、誰からも頼りにされなくなる、相手にされなくなるというのも、辛いことなのだと思います。

 個々の社会的地位とかはともかく、社会の生産活動を直接間接に担う、いわゆる生産活動年齢にあるうちは、他人からその役割を果たすことを求められますし、組織にあれば相応の役職と立場を与えられ、マネージメントの名のもとに、自分の能力以上の成果を、上司、同僚、部下と協力して達成することを求められます。たしかに忙しいのですが、忙中閑ありで、忙しいからこそ、休息の時間や休暇を楽しむことができます。ただ、生産活動への貢献は、人生100年と考えると、後半は尻つぼみになって70歳を超えても社会から求められて活躍できる人は非常に少ないと思います。自分ではまだまだいけると思っていても、後進からは老害と見做されかねない、引き際の難しさを孕んでいます。

 一方で、趣味とか地域活動であれば、ある程度、年齢の幅があっても活動を続けることができます。体力に応じてできるテニスのようなスポーツが良いのかもしれませんし、音楽であれば同じ年齢層で組んで楽しむことも可能です。ただ、高齢者といってもある程度の年齢になると、仲間も減っていきますし、これらも80歳を超えると、同窓会のように今年で解散、ということも増えてくるかと思います。

 そう考えると、80歳を超えるとある程度、孤独を楽しむ、そこまでいかなくても慣れることが、求められるように思います。そこから人間関係を築いても、それまでの蓄積に比べれば関係は浅くならざるを得ません。地域コミュニティがしっかりしていた時は、人間関係の煩わしさの対価として、孤独はより緩やかに訪れたのだと思いますが、今は人間関係が家族単位で閉じていたりすると、相方がなくなればいきなり無人島に一人、というような思いになるのでしょう。

 そういう状況が現在の母の気持ちであり、子どもとして寄り添いたいとは思いつつ、電話をして前向きな話になる可能性はゼロなので、私が心を奮い起こして、かつ怒りや苛立ちの心を抑えて、とにかく聞くことに徹しなければなりません。まさに「なりません」であり、日々のストレスも並々ではない中、さらに精神的スタミナを費消しますので、きついなと思います。とはいえ、放置しておけないのは事実であり、今日も無理難題を聞くことになるのだろうと思いつつ、自らには「あまり真面目に受け止めるな」と言い聞かせ、電話に向かいたいと思います。

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