デジタルが世の中のすべてを良くしていくとは限らない。ネットワークがつながっていなければ個々のデジタル機器の能力はたかが知れており、単体で新鮮で食料や水といった生命維持に不可欠な物資を生み出せるわけではない。現実における問題の多くは価値観の異なる人間が同じ社会で共存せざるを得ないことや、限られた資源の配分に起因している。また、人間が社会的に生きる限り、他者との競争は不可避である。結果として競争力のない弱い立場の人は、最も暴力的な社会では排除され、多少文明的な社会では競争に負けた状態で存在は許されるが、劣等感に苛まれて生きる。過度な競争は多くの人々にストレスを与え、社会不安をもたらすことから、弱者に対するケアが手厚い社会、すなわちセーフティーネットが張り巡らされた社会制度に生きる人々は、最低限の安定と安心と、何よりも尊厳を持って生きることができるが、それでも劣後の感情を個々人から取りされることはできない。
デジタルによって、すべての問題は解決できないし、偏った価値観の増幅や、無防備に情報に触れる人々に対する支配者側の巧妙な情報操作の舞台となる可能性もあるが、情報の拡散と共有、最新の人類進歩の成果のアップデートはネットワークを通じて実現可能になっており、まずはそのスキルを磨くことで、個人が世界を変える可能性が生まれている。安直にデジタルに頼るのではなく、照準をあわせて訴えかけていくことで、デジタルの進歩の前には特定の権力やマスメディアにしかできなかったことが可能になっているのだ。公私の両面で、掘り下げていく価値はある。今はさまざまなリアルの制約や自らの未熟さによりそうした可能性の万分の一も生かせていないが、気づきを得て、そこに注力する、何かとってつけたような目標とか、人から与えられた流行りのデジタル知識の断片を得て知った風になっていることとは全く別の、本質的な目標をはじめて得たような気がする。
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