ある人のブログを見ていて、みたらし団子を1本30円で販売している移動販売店のことが、一種の美談としてニュースに取り上げられたことで、逆に「そうした価格破壊をする輩がいるから日本の賃金がいつまでも上がらないんだ」という批判的な意見が多く寄せられたという話を知りました。
たしかに、安売りで有名な近くのスーパーセンターに行くと、盛り合わせ弁当が300円以下で売られており、食べ物関係は仕入れ方法で下げられる余地はあるにせよ、原価がもともと低いので下げ幅は限られるはずなので、結局のところ、そこに上乗せされる人件費を抑えているのではないかと感じ、そうなると製造過程において、さすがに食品衛生法等の基準は遵守してはいるとは思うものの、少し気持ち悪いものがあり、購入したことがありません。人件費もそうですが、食べ物というのは完全予約制のレストランとかでない限り、一定程度の仕入れのロスは避けられず、それも含めての価格設定は、最低500円ではないかと思うからです。とはいえ、こうした弁当が大量に売られているということは、その価格を妥当だと考える消費者がいるからであり、そうした消費者の所得水準では、300円で弁当が食べられてこそ生活が成り立っているという可能性もあるので、鶏が先か卵が先かであり、ただ、消費者ニーズというものに寄りがちで、サービス提供側の論理に立って成功するのはトップブランドだけ、全体の安さを求めるニーズの多さに引きずられて失われた20年、といったところではないかと思います。
インターネット社会になり、消費者の選択肢は豊富になり、情報格差もなくなりました。リアルの店舗に来てほしいモノがあっても、その場でネットで調べて、ネットで買った方が明らかに安ければそちらで買うことを決めて店を出てしまう。そういった経験をした人は少なくないと思います。リアル社会でのリアルの商売やサービスは厳しい状況に置かれています。差別化による価格競争力の確保というのは簡単ではありません。リアルでも成功しているのは、ストーリー性をもたせたり、アニメとコラボしたりして、消費者がモノやサービス提供の背景に、無形の価値を見出すことで、その対価としての差額を支払ってもらうことで成り立っています。コンテンツ産業という、無形の財産の領域が拡大することで、マーケットは拡大しており、そのマーケット拡大の原資には、金融市場の現物以外の取引の爆発的拡大による、金融資産の膨張という要素もあります。地に足がついていない、額に汗水たらして仕事していないところで、高付加価値が生み出され、その分野の給与水準が高くなり、人材はそうした分野に集中する。それを批判する人はいますが、そこがなければ経済が回らないのは事実。ただ、経済の外側に地球環境の有する限られた資源というのがあり、そこが制約になりつつあるので、持続的発展のためにSDGsなどの取組が重要視されている、旧来のリアル社会主体の時代を知る人からすると、いろいろ違和感があるわけですが、そういう流れに追いつかないと、300円弁当に頼らざるをえないのも事実です。自分もそういう旧世代にシンパシーはあるわけですが、自分の次のライフステージをより良いものにするには、変わっていくしかない。周囲がそこまで追いついていないので、理解を得るのは難しい面もありますが、あきらめず、変わることの重要性への理解を浸透させていきたいと思います。みたらし団子30円から、話はだいぶ広がってしまいましたが、文章を書くにあたり「降りてくる」というのは、こういうことかもしれません。
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