子供に背中を押されるもの

 子どもが増えると喜ばしい反面、自分が使える時間が削られるようにも思えることがある。生まれた直後は大人の都合に合わせた時間の感覚もないから大変になる。寝たいときに眠れないし、日中も自由にならない。その後、一時的に少し手が離れたように感じることもあるが、成長により自我に目覚めるというのか、親と同色ではない個性が出てくる。さまざまな因子が影響した結果であると思うし、その因子の多くに親が関わっているのだが、その割には自分の意図せざる個性となって表出することも少なくない。さらに成長すると学校という社会との接点が出てきて、そこでは相対評価の世界に出ていくため訓練をさせられ、親の保護下の絶対軸とは違う子への評価に戸惑うこともある。学校での評価軸は社会に出てからの評価軸と異なるし、超絶に得意とする分野があればいずれは学校の評価軸を凌駕していくのだが、そこまで見通して受容する親は少ないだろう。そうこうしているうちに親の評価軸からは離れて自分なりの評価軸を持つようになり、これまでの価値観を同じくした一体的存在であった家族は、家庭内にはいるものの、個性として自立した親と子供の同居空間になり、子供はいつでも飛び立てるようになれる。

 考えてみれば、その関係性はお互いの慣れ、とか社会通念上の常識とかに補強されることではじめて、特別な人間関係として成立しているものだ。最初は圧倒的に見える能力の差も、あっという間に追いつき追い越される。学力だけでなく、人間的にも成長した子供の個性に向き合い続けるには、親も成長することが求められる。距離感が圧倒的なものでない限り、親が怠惰な姿を晒せば同調されるか反面教師とされるかの存在になってしまう。他人であれば無視してもらえるが、特別な関係性があるのでそうはいかない。子供はいつまでも小さいと考えていると、緊張関係に親の方が耐えられなくなる。

 経済的な負担をしたうえで、親としての成長を求められる。大変ではあるが、子供により人生の時間軸を意識させられるメリットはある。一人で過ごしていると時間軸を意識しなくても平板なところを自分のペースで進めばよいことになり、余程、気持ちを入れない限り、年齢を重ねるにつれて守りに入るようになる。そこは常に気持ちをリフレッシュさせられるので、自分のような人間には子供たちは人生を可能性を広げるために不可欠であった。塞翁が馬であるが、二人とも個性を抱きつつ、大病もせずに健康的に育ち、学習面では苦戦している面もあるが、前へ向かおうという姿勢は持ち続けている。あと10年ほど、それは長いようで短い期間であるが、自分も日々、微差の変化を積み重ね、共に成長していきたい。

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