これからお話しする東国世界のことについては、いずれ統一国家が復権したとき、再び表の歴史に埋没してしまうのだと思います。太陽が隠れた時に光芒を放つ星のようなものです。でも、土地は変遷の歴史を自らに刻み込み、内包しています。古代東国世界が中央の文化に呑み込まれ、反旗を翻した辺境の出来事で整理されてしまった、人々の記憶には残らなくても、土地はそのことを覚えています。
僕は歴史の本を多く読みましたが、後世に遺された史実は盛者の物語であり、盛者必衰の理により、国家が衰微し滅亡する時、そこにいる人々がどのような状況にあったのかを知ることは難しい。そうした歴史を編纂する勝者の国家は自分の都合の良いように、滅びた国家の歴史を編む。整合性の取れない個人の日記があれば、滅亡の裏面を読み解くことは可能かと思いますが、それも一つの断片で、断面でさえありません。滅亡に至る過程は後から見れば支離滅裂であり、行き当たりばったりであり、刹那的でさえあります。専制国家においては、それは為政者の責任においてなされたことで、その時代を生きた人民は被害者という構図で良かった。
でも民主主義国家は、統治体制と法制度の複雑さを、巨大かつ複雑極まりない経済活動とあわせて、国民自らが理解し、判断を下したことにしなければなりません。自分の生命と財産が特定の権力者に弄ばれるという危険は排除できましたが、その代わり、情報をほとんど与えられない中で政治経済を動かす権力の正当性のお墨付きを与えるという、できもしない役割を与えられることになりました。
多くの人は自分の生命と財産の最低限は保証されたものの、より豊かな生活を追い求めることを半ば義務付けられており、社会安定に必要な役割と相まって、個人としての忙しさは生活時間の限界までフル稼働することを求められるようになりました。そのうえ政治経済に対する責任まで負わされても、そうしたことに割く余裕がない。政治が変わらないなら関わらないというのは、合理的選択と言えます。その結果、政治経済の仕組みがどれだけ複雑になっても、わからないよと文句を行く人はなくなり、政治家も含めて、自分の関心のある狭い領域だけが改善すればよいと考えるようになります。お金を借りて借りて借り続けてというのは、多重債務者の陥る地獄ですが、国家がそれをやると至極まっとうなこととして理解される。本来は法律が理性としてこうした先送りに足枷をはめるべきでしょうが、法律は運用次第で骨抜きにされ、専門家も教科書で習った知識はすっかり忘れてしまったようでした。
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