常識や慣例との付き合い方

 価値観の異なるさまざまな人がいて、お互いに協力しあって生活している現代社会においては、社会におけるあらゆる場面において、決まり事があります。その決まり事に誰かが反することで、人の生命や財産人としての権利が不当に侵害されるような事態を引き起こすような場合は、決まり事は法律となり、法律に反すれば、国家により刑罰が与えられることになります。それに準じる決まり事に、各省庁の定める政省令とか、地方公共団体が定める条例、規則などがあります。

 常識とか慣例というのは、法律のように生命や財産、人としての権利の侵害に直接影響しなくても、それを守らない人がいることで、お互いの信頼関係が損なわれるような決まり事になります。このへんは、実にこまごまとしており、かつ、正しさというよりも、これまで多くの人がそのようにやってきたからという理由だけで、これまで変えられずに守られてきているものもあります。社会環境が変化し、その変化に適応して人々の生き方も変わり、多くの人の価値観がそこから離れている場合は、そうした常識や慣例を守ることで、人々の行動の最適化を妨げ、無用なコストを生じさせることになります。

 このため、社会の変化に適応できていない常識を打ち破り、新しい常識を創設するということは、大事なことですが、限りある命を持つ一人の人間にとっては、認知能力、時間は有限であり、自分の関心領域になるべく注力したいと思うのはごく自然なことで、それ以外の自分にとってどうでもよい領域は、そこに常識とか慣例とかいうのがあれば、とりあえずそれに従っておいて、コストを最低限に抑えたいと考えるわけです。

 そのため、常識や慣例について変えようとする議論は、その常識や慣例によって価値観に基づく行動に大きな制約を受けている、マイノリティーの価値観を持つ人々と、それに対して、常識や慣例を守ることに重きを置いた価値観を持つ人々の間で行われることになります。

 この構図において、常識や慣例にこだわる人々は、社会全体から見れば、それほど多数ではないのですが、そこに関心がなく、変えても変えなくてもどっちでも良いと考える人の力を借りることができるので、変えようとするマイノリティーの力を常に凌駕することになります。

 常識や慣例について、これまでのものをぶち壊して新しい常識や慣例に置き換えるというのは、これまでの権力を全否定する新たな権力によって強権的に置き換える、いわゆる革命なしには難しいわけで、マイノリティーの人々が価値観の衝突する保守サイドを打ち砕くことができると考えるのは、幻想であると思います。それを政治的スタンスに置いて、そうしたマイノリティーの支持により自分の存在意義を見出す人はともかく、現代の日本において実利を得ようとすれば、外圧により変えていくか、全面衝突を避けて、常識や慣例はそのままで、運用上の実績を積み重ねていくことで、無関心な人々の支持を広げていくしかないと思います。

 自分自身がマイノリティーの価値観を持つが故に、常識や慣例に基づいて行動することを当たり前と考えて、本人の無自覚にマイノリティーの価値観を否定する人に対する反発心は当然あるわけですが、自分も無関心領域についてそこまで気が回ることはなく、やはり同様に無自覚に価値観を否定しているかもしれないと考えると、そこはお互い様と考え、自分と他者の課題を分離して、捨て目、捨て耳に徹したいと思います。

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