病室のユメ(1)

 僕の病気が治らないのではないかと、思い始めたのはいつ頃だろうか。

 病との出会いは衝撃であった。死と直結する病であるから、全身が必死に抗おうと した。だが、病は体の機構に取り込まれることで成長しており、病を滅ぼすことは自らを一度死に追いやらねばならない。それこそ仮死状態に追い込んでは立ち直らせることで、この癒着した病を追い払おうとしたが、どのように演出しても、病は立ち去ってはくれない。

 この病気が他人であれば、生死を彷徨えば別の生ある者を探しにいくのだろう。いわゆる「見限る」というやつだが、この病は見限ることがない。とにかく、死を迎える最後の瞬間まで、死に連れ添うのだ。まったく相いれない者同士が最後まで連れ添うというのは、逆説的ではある。

 この病気は、自分が抱える矛盾のようなものだ。

 矛盾は、一般的に無節操、日和見、といった言葉と親和性があり、内包している組織は大きな不安定要素を抱え込むことになる。組織の正当は矛盾の対象たる異端を排除することを志向するが、排除は組織の体力を大きくそぎ落とすことになる。

 まさにこの病気がそうだ。憎たらしいが、組織と不可分に入り込んでいるこの病は、排除を最優先にすると、自分を消すしかない。なるほど、人間の欲と似たところがある。欲は身を滅ぼすが、欲がなければ生きる意欲がわかない。

 僕の体はあちこちでこの病の燃料として費消され続けている。補給や補修は体の統治機構を通じて行ってはいるが、輸送路はあちこちで分断、寸断され、追いついていない。費消された部位は修復をなされないまま放置されて使用不能になり、統治機構は緩慢に崩壊しつつある。

 緩慢な崩壊の先には、死があることは疑いないが、本人は案外、死を現実にとらえていないのかもしれない。

 いたちごっこというのも、この病の特徴を表す表現としてよく用いられるが、本人は、いたちごっこをいつまでも続けられるように感じている。

 でも、このいたちごっこというのは、案外金もかかるし、体力も使う、統治能力の低下で、基礎体力は落ちる一方なので、淡々と、勢いを弱めることない、波状攻撃にさらされると、いずれは攻守の力の差が開いて防戦一方になり、力尽きることになるのだろう。

 防戦一方となり、統治能力が欠損してしまえば、後世の自分の魂に引き継ぐための、心を耕す作業はできなくなる。

 おそらく人間に生まれた最大のものは、高い他者理解能力で魂の交差点をすれ違い、交感し、次の生に引き継ぐことができることであると思う。これは「縁」というもので言い表せるのかもしれない。人間が次の生も人間に生まれる可能性は、生物の多様性と大宇宙の広さを考えれば、単純な確率論から言えば、皆無に等しい。だが、縁さえあれば、その力で確率論をゆがめることが可能になる。人間に生まれたいかと問われれば、即答はできない。

 即座に回答できるのは、人間としての生活において、肉体的、物質的、社会的に恵まれた状況にみえる他者への生まれ変わりだ。そこには苦しみもあるのだろうが、隣の芝生の気軽さから、その苦しみは大きな便益に比べれば耐えられるように思う。

 しかし、人間に生まれかわるというのは、それに比べればリスクが大きく感じる。命の価値はじっさい格差があるし、楽しみより老病死の苦しみのほうがはるかに多い。

 なれば生まれ変われない、生は完結しているほうが、安心か。

 そんなことはない。たましいは実体の生を望んでいる。

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